和歌山市立西脇幼稚園

感じ理解する教師に

「子ども理解に始まり、子ども理解に終わる」と、教師になった時に教えていただきました。「理解する」ことでは、すべて理解できたということはないので、「理解し続けることが大事」という意味を教えて下さっていると思います。

教育する相手が分からないで、物事は始まりません。

子どもたちは何に興味があるのだろう? 子ども達は何を知りたがっているのだろう? 何を見てほしいのか? 子ども達の「気持ちのありどころ」を感じ、そこに視点を注げる教師でありたいと思います。

「先生、良いくつだね」と、子どもが言うのです。「ありがとう。そうだろ・・・」と、反応していていいのでしょうか。実はその子は、自分の履いている靴を見てほしかったのです。反応としては「A君の靴もかっこいいね」と、反応したら、A君はきっと、そのことの物語をはなし始めたり、あるいは、先生がほめてくれてよかったと気分的に落ち着いたのかもしれません。

なかなか子供の思いをうけとめることは難しいと常に思っています。言葉に表すのがうまい子・なかなか思いを上手く言葉にできず思ううように話せない子等々います。でもどの子どもも、安全に守られている安心感の中でこそ、自己をしっかり表現しようとします。

子どもにとって安心できる教師でありたいですし、子どもがたどたどしくても、伝えようとする心を感じられる教師になりたいです。

さらには、そのひとりひとりを、周りの友達との出会いをうながす触媒になれる教師でありたいと思うのです。

よりよい環境に

「幼児教育は環境を通じて行うこと」が大切です。
本当に、環境は子ども達にとって重要な意味を持ちます。「ことば」と同じかそれ以上に「環境」が、子ども達のより良い成長への働きかけが大きいのではないかと思うこともあります。

西脇幼稚園は、4年前に、「園庭芝生化」をしました。土のグランドと、芝生の園庭では、子どもの動きが違うように思います。芝生は、こけても大丈夫です。それまで、すねに「傷テープ」を貼っていましたが、今は、そんなことはありません。初夏には、バッタの赤ちゃんがとんでいたり、秋には、トンボが飛びまわっていたりと、土のグランドの時とは、景色が違います。

園庭の砂場の横に大きな月山をこしらえました。広い砂場と連携しながら水を流したりする姿もあります。月山の上までかける上がり、斜面を走り降りる。砂を掘る。水をためる。水と砂を混ぜる。料理に見立てる。

「すなばですべてを学んだ」という詩がありますが、子どもたちは、砂場と山と水との自分の世界の中で、想像を膨らませ、友達と一緒に、何かを作り、ためし、しっかりと遊びこむ姿があります。
集中して遊ぶことであったり、友達と協同作業をすることであったり、試行錯誤する姿だったりと、楽しみながら学びを広げていく様子があります。

学びは、主体的であることが大切です。

教師側の意図することを、子どもが自分のやりたいことに変化していく物語を教師が、支援していくことが大事と考えています。

子どもをただほっておくということではありません。

先生が作り上げてしまうということでもありません。

先生の想いを「環境」として、そこに出しておいて、子どもがそこから「選択」することで、自分が主体者として「やりたいことをしていく」。だから、子どもが選択することができる余地を大事にしながら、「環境を準備する」ことが、教師としては大事になると考えます。

先生の考えた枠の中だけしか、子どもが活動できないという、強固な枠でなく、「時間と安全な場」の枠は、教師はしっかりともっていたとしても、「思いの枠」は、主体者である子どもの意欲を大事にしながら、作り変えていくことが大事であると考えます。

子ども理解をすすめるなかで、子どもに必要な、子どもがより主体的に、自分が初めから考えたかのごとく、まさしくしたいことに取り組める環境を、意図的に準備する力量。

そして、子どもの意欲を更に大きくするエネルギーを注ぎ入れられるような、教師の力量がそこにある。

それらをふくめて、「こどもにとってのより良い環境」であるし「環境を通した幼児教育」であるように思っています。

家族一緒に朝ごはん

私の小さなころ、といっても、私が大学進学で家を出るまで、そうだったのですが、『家族みんなで朝ごはん』を食べていました。

私が家族をもち、子どもが生れてからも、子どもが下宿をするために家を出るまでは、そうでした。

正直なところ、今現在、息子が働き出してからは、時間差の朝ごはんになっています。

「食事は愛情」

そう、おっしゃる方もいます。食事を一緒に食べることで、愛されている実感を得たのではないかとも思います。

自分がこの家族の一員だし、ここにいて良い、所属欲求が満たされ、愛されている実感を得られる時間となったと思います。

今考えると、一緒に朝ごはんを食べられることが、「有り難い」ことだと思います。仕事の関係などで、なかなか一緒に食べられない現状もあるでしょう。 だからこそ、一緒に食べられる時間が「有り難く」感じます。

私自身も、休日の朝ごはんだけでも、息子を囲み、一緒に食べられたらと思っています。

自分自身も、両親といつまでも一緒に食べる機会があると思っていたのですが、もう両親ともなくなり、その機会も作ることがかないません。

家族で一緒に食べる時間がつくれるということは、幸せなことなんだと、今ごろになって、強く感じています。

現職教育 1学期振り返り会議から(7月18日)

≪8月9日の園の様子≫

「遊び会」があります。

保護者子供合わせて、107名の申込者です。園庭に子ども・保護者の明るい声が響いています。

 

 

 

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竹に節があるから、まっすぐに上にばせます。「節」という機会がとても大事です。

職員全員で、1学期の振り返りをしました。

・各学年からの総括の後、私に回ってきましたので、次のようなことを言いました。

 

①安全安心の園は、先生たちの不断の取り組みがあるからこそ。大きな怪我等がなく1学期をしめくくれることに感謝。

一番、「ひやりとした怪我」を聞きました。各学年からは「こけて唇をかみ、唇のけが」が2学年、1学年は「特に」ということで、本当に、お医者さんに連れて行く場面もなく、安全に過ごせたのは、見守りのしせいがあったからこそなので、この一番大事なことを2学期もお願いしたい。

②自信を持つ子を育てる。

西脇幼稚園の現職教育の課題を達成するためにも、へこたれないでやれる、自信の持った子を育てることが大事。そのために、教師が子どもにどうかかわるか。どうかかわったかを「取り組みと、変容」を具体的事例で、交流することが大事。

③ストーリー保育

(私の造語であるが)「今一瞬の子どもとのかかわりの、良いストーリー」「40分の課題の、入り口と、出口をイメージしたストーリー」「1日の保育のストーリー」「1年間の保育のストーリー」

人生のストーリーには、喜劇も悲劇もいろいろある。もちろん子どもが主人公の物語である。教師は、どのようなストーリーをつくろうとしているのか。できれば、子どもにとって素敵なストーリーになるように、教師が意図的にストーリーを作ってほしい。

子供との出会いの中で、今、良いストーリーが進行しているか、教師のありかたを自己点検してほしい。子供のストーリーが良いようになるかどうかのカギを握っているのが、教師である。

④意図的教育

教師が意図的に、環境構成をする。そこには、子どもが「選択」する余裕がある。子供が、教師の環境構成の中から、自分が選んだ遊びを広げていく。初めは、教師が意図的に仕掛けた物であったが、子どもが自分で選んだものをすすめることで主体的にとりくむ。教師が意図したことであるが、そこにはすでに、子どもが、さも初めから自分がやりたかったことであるかのように、子ども主体の場面にスイッチしている。

子ども理解の上に立ち、環境構成すれば、教師主導から、子ども手動へスイッチする場面が出てくる。

子どもが生活や遊びの中から、「自ら」発見する学びを大事にしたい。外から知識をつけるのでなく、子どもの中にある物を引き出すことを大事にする。そのために、意図的に環境を構成していきよい刺激をあたえる環境を考える。

「刺激をどうしたら、どう反応したか」⇒「どんなしかけをしたら、どう子どもが動いたか」

これを楽しむのが、教育の醍醐味。

「刺激と反応」をメモし、交流・高め合う教師集団で、二学期もスタートしたい。

 

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蛇足であるが、

8月9日は、「紀三井寺の千日参り」一回参ると、千回参る功徳がある日。

私自身、見えない、仏さんの見守りを感じています。

今日も家族で、朝お参りしました。

人間磁石として

「支援」の姿としては、人間磁石になりたいのです。(「人間磁石」とは、私の造語です。)

直接関わり合うだけではなく、見守る。あるいは、自分たちで乗り越えられるのを待つ等々、子どもとの適切な距離を見極めることが大切です。

1つ1つ、主体者である子供に合わせた対応が必要となります。

 

子供との距離をどうするのか。うんと寄り添うのか、それとも、距離を話して見守るのか。自分の人間磁力を場面によって変化させる教師の動きが、教師の力量と思います。

3歳で、エプロンの服を切る時、手を貸して、あるいは、手はださないが一緒に。あるいは、トイレの場面でも、先生がトイレの入り口で、声をかけていたり、傍に行ってあげたり、場面ごとに支援を変えています。

支援する教師中心でなく、子ども中心にして、どれだけの支援が適当なのかを考えながら寄り添っています。

磁力がまちがっていたなら、こどものやる気を十分引き出せなかったり、成功体験に結び付けることができなかったりと、教育する場面が残念なことになってしまいます。日々の中にある一つ一つの事ですから、「人間磁石」として、機能している教師と、そうでない教師の学級の姿が違ってきます。

常に教師は、どのような支援がこの子にとって必要なのかを意識して、行動したいと考えます。

 

家庭でも、適切な「おてつだい」を子供がするような支援ができるのか、それとも、『親がしてしまった方が、効率的だから、させない』のかで、子どもの未来の姿がずいぶん違ってきます。

成長の芽を、子供の発達に応じて、伸ばしていける支援をしたいものです。

 

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