和歌山市立西脇幼稚園

職場の三原則

社会人として、職場での「三原則」を教師で確認しています。

1.時を守り

「時間は、命」ですから、時間を約束したなら守る。

時間を意識して、動くように心がけます。

2.場を浄め

「整理・整頓・清掃」

清掃は、できるのですが、「整理=すてる」ことができません。

物がもったいない、という気がするのです。清掃は、毎日園児も取り組んでいます。

※給食後、全園児一斉に「掃除の時間」を設定して、雑巾を使っています。

教師は、毎朝入口を掃いたり、草をひいたり、15分程掃除をしています。

3.礼を正す

あいさつです。

「あいさつ・返事・履物を揃える」を心掛けています。

トイレのスリッパは、100%と思いますが、少なくても90%は、常に揃っている状態があたりまえとなっています。有り難いことです。

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≪蛇足ですが≫

雑巾を使っていると、自分を支える腕の力が付いてきます。さらには、頭の位置が腰より低くなり、さかさ感覚が身に付きます。なので、鉄棒で、逆さになることができ、逆上がりなどへの導入となっているように思います。

環境を構成する。準備の大切さ。

主体者である子どもの興味関心は、常にひとところにありません。しかし、教師は意図的に環境を構成します。学びの仕掛けとして、意図的な環境構成は、必要な事です。時々の子ども達の興味関心を受け止め、豊かな遊びを展開するために担任のみならず、保育補助、時には保護者にも協力していただき準備します。

この1月期、ある先生が、おたまじゃくしをもってくてくれたり、アメリカザリガニを持ってきてくれたり、地域の方がジャンボカボチャをくださったり、花の種や苗をくだ議に繋げていこうとするりしました。

みんなの手をお借りし、準備することが大事なことです。

「遊びは学び」です。学びをどのように経験させ、次につなげていくのか。準備や見通しを持ち、質の良い体験を準備したいと思います。

そして、子ども達が、周囲の環境に興味や関心をもって積極的に働きかけ、見通しをもって粘り強く取り組み、自らの遊びを振り返って、次につなげていこうとする「主体的な学び」が実現できているのかを見守っていきたいと思っています。

感じ理解する教師に

「子ども理解に始まり、子ども理解に終わる」と、教師になった時に教えていただきました。「理解する」ことでは、すべて理解できたということはないので、「理解し続けることが大事」という意味を教えて下さっていると思います。

教育する相手が分からないで、物事は始まりません。

子どもたちは何に興味があるのだろう? 子ども達は何を知りたがっているのだろう? 何を見てほしいのか? 子ども達の「気持ちのありどころ」を感じ、そこに視点を注げる教師でありたいと思います。

「先生、良いくつだね」と、子どもが言うのです。「ありがとう。そうだろ・・・」と、反応していていいのでしょうか。実はその子は、自分の履いている靴を見てほしかったのです。反応としては「A君の靴もかっこいいね」と、反応したら、A君はきっと、そのことの物語をはなし始めたり、あるいは、先生がほめてくれてよかったと気分的に落ち着いたのかもしれません。

なかなか子供の思いをうけとめることは難しいと常に思っています。言葉に表すのがうまい子・なかなか思いを上手く言葉にできず思ううように話せない子等々います。でもどの子どもも、安全に守られている安心感の中でこそ、自己をしっかり表現しようとします。

子どもにとって安心できる教師でありたいですし、子どもがたどたどしくても、伝えようとする心を感じられる教師になりたいです。

さらには、そのひとりひとりを、周りの友達との出会いをうながす触媒になれる教師でありたいと思うのです。

よりよい環境に

「幼児教育は環境を通じて行うこと」が大切です。
本当に、環境は子ども達にとって重要な意味を持ちます。「ことば」と同じかそれ以上に「環境」が、子ども達のより良い成長への働きかけが大きいのではないかと思うこともあります。

西脇幼稚園は、4年前に、「園庭芝生化」をしました。土のグランドと、芝生の園庭では、子どもの動きが違うように思います。芝生は、こけても大丈夫です。それまで、すねに「傷テープ」を貼っていましたが、今は、そんなことはありません。初夏には、バッタの赤ちゃんがとんでいたり、秋には、トンボが飛びまわっていたりと、土のグランドの時とは、景色が違います。

園庭の砂場の横に大きな月山をこしらえました。広い砂場と連携しながら水を流したりする姿もあります。月山の上までかける上がり、斜面を走り降りる。砂を掘る。水をためる。水と砂を混ぜる。料理に見立てる。

「すなばですべてを学んだ」という詩がありますが、子どもたちは、砂場と山と水との自分の世界の中で、想像を膨らませ、友達と一緒に、何かを作り、ためし、しっかりと遊びこむ姿があります。
集中して遊ぶことであったり、友達と協同作業をすることであったり、試行錯誤する姿だったりと、楽しみながら学びを広げていく様子があります。

学びは、主体的であることが大切です。

教師側の意図することを、子どもが自分のやりたいことに変化していく物語を教師が、支援していくことが大事と考えています。

子どもをただほっておくということではありません。

先生が作り上げてしまうということでもありません。

先生の想いを「環境」として、そこに出しておいて、子どもがそこから「選択」することで、自分が主体者として「やりたいことをしていく」。だから、子どもが選択することができる余地を大事にしながら、「環境を準備する」ことが、教師としては大事になると考えます。

先生の考えた枠の中だけしか、子どもが活動できないという、強固な枠でなく、「時間と安全な場」の枠は、教師はしっかりともっていたとしても、「思いの枠」は、主体者である子どもの意欲を大事にしながら、作り変えていくことが大事であると考えます。

子ども理解をすすめるなかで、子どもに必要な、子どもがより主体的に、自分が初めから考えたかのごとく、まさしくしたいことに取り組める環境を、意図的に準備する力量。

そして、子どもの意欲を更に大きくするエネルギーを注ぎ入れられるような、教師の力量がそこにある。

それらをふくめて、「こどもにとってのより良い環境」であるし「環境を通した幼児教育」であるように思っています。

家族一緒に朝ごはん

私の小さなころ、といっても、私が大学進学で家を出るまで、そうだったのですが、『家族みんなで朝ごはん』を食べていました。

私が家族をもち、子どもが生れてからも、子どもが下宿をするために家を出るまでは、そうでした。

正直なところ、今現在、息子が働き出してからは、時間差の朝ごはんになっています。

「食事は愛情」

そう、おっしゃる方もいます。食事を一緒に食べることで、愛されている実感を得たのではないかとも思います。

自分がこの家族の一員だし、ここにいて良い、所属欲求が満たされ、愛されている実感を得られる時間となったと思います。

今考えると、一緒に朝ごはんを食べられることが、「有り難い」ことだと思います。仕事の関係などで、なかなか一緒に食べられない現状もあるでしょう。 だからこそ、一緒に食べられる時間が「有り難く」感じます。

私自身も、休日の朝ごはんだけでも、息子を囲み、一緒に食べられたらと思っています。

自分自身も、両親といつまでも一緒に食べる機会があると思っていたのですが、もう両親ともなくなり、その機会も作ることがかないません。

家族で一緒に食べる時間がつくれるということは、幸せなことなんだと、今ごろになって、強く感じています。

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