和歌山市立 高松小学校

校区の状況

校区絵地図

 

 本校の校区は、和歌山市旧市内の南部に開けた住宅地域と、校区東部を流れる和歌川沿岸に沿う工場地域からなっています。
 南部には、浄心寺山・愛宕山・秋葉山と呼ばれる小さな丘のような山々が、緑豊かに並んでいます。これらの山々は、天正5年(1577)織田信長による紀州攻めの際、鉄砲隊で有名を馳せた雑賀衆が必死に防戦した古戦場で、山上から和歌川を望む風景は、当時の祖先の活躍を偲ばせます。
  近世では、城下町和歌山の南部に接して続く農村地域であり、砂丘が起伏する畑作地と和歌川に沿う低地の水田が見られました。砂丘の高い部分は松林からなり、和歌道(国道42号)に沿って見事な松並木が続き、砂丘の崩れによって形成された有名な「根上り松が随所に見られたそうです。雑賀組に属した宇須村・関戸村・塩屋村・西浜村(一部)・和歌村(一部)が、ほぼ本校の校区にあたり、明治22年(1889)市制町村制の施行とともに、その地域が合併して雑賀村になりました。
  第一次世界大戦を期に、和歌川流域に繊維工場や化学工場が進出しはじめ、それと関連して、地区北部から住宅化が進み、国道に沿って商店街も開けてきました。昭和2年(1927)、和歌山市は雑賀村を合併し、翌3年、北部で接する吹上地区吹上小学校から分離して、高松小学校が誕生しました。本校の校名も高松地区という呼び名も、近世以来の景観に由来しています。第二次世界大戦中、国道に沿う松並木は伐採され、現在は、西部に松林がわずかに残っているに過ぎませんが、静かな住宅地域と、工業地域に接する住宅地域という生活環境は、大戦前と変わっていません。
  昭和30年代後半から始まる高度経済成長期には、地区南部の住宅化がすすみ人口14,147人(昭和41)、世帯数4,454(昭和44)、児童数1,533人(昭和34)が増加のピークとなりました。
  令和2年度の本校児童数は467人となっています。(令和3年2月4日現在)

 

 

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