和歌山市立 雑賀小学校

雑賀(サイカ)の由来

 万葉の昔、神亀元年冬十月(約1260年前)、聖武天皇、紀の国の玉津島頓宮(かりのみや)に行幸され、雑賀野に離宮を造られた。所は権現山と秋葉山の間あたりであったろうといわれる。
このとき山部赤人がよんだ長歌が万葉集の巻六にのっている。

  やすみしし わご大君の 常宮と 仕へまつれる 雑賀野ゆ
  そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白浪さわき
  潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より 然そ貴き 玉津島山     (917)

つづく反歌
  沖つ島 荒磯の玉藻 潮干満ちて 隠ろひゆれば 思ほえむかも  (918)
  若の浦に 潮満ちくれば 潟を無み 芦辺をさして たづ鳴き波る (919)

このように雑賀野から眺める自然の景観、まことにすぐれたものであった。
太古、海であったこのあたりは、海辺が西へ移るにつれて雑賀野とよばれる広い野原となっていったのであろう。
これが「雑賀(サイカ)」の名が文献にのった初めである。

 時代の変遷とともに、紀の川河口平野に住む人びとが多くなるにつれて、土豪が、連合して、「雑賀衆」を名乗り、愛宕山一帯の高地、岡山の城郭を中心に、雑賀野一円がその領地であった。
これが本願寺と組んで信仰を通じ織田信長、羽柴秀吉と敵対する。
天正5年(1577年)織田勢が雑賀党を攻めた際、賀茂建津之身命(やた烏命)をまつる矢の宮神社の信託をうけ、織田勢を大いに破るなど(鷺森旧事記)天正年間の抗争を経て、勇猛果敢な雑賀党の名は、その属する鉄砲勢とともに全国になりひびいていた。

 氏子の尊崇あつい矢の宮神社の境内が提供されて現在、本校校庭になっていることも、忘れてはならないことである。

 雑賀荘は、海部郡雑賀荘の11箇村に加えて、名草郡の雑賀在15箇村を合わせ、26箇村を含んでいたが、明治の廃藩置県後、大区、小区から区郡町村浦の呼称を経て、明治22年、市町村制の施行にともない、関戸、宇須、塩屋、西浜の4大字をまとめて、ここに海草郡、雑賀村が発足した。
これが昭和2年、和歌山市に合併されるまで続くのである。

 明治5年、学制発布により、明治7年から9年にかけて、関戸小学校、水軒小学校、渦(宇須)小学校、西浜小学校がそれぞれ開校した。
これらはまた、それぞれ明治26年から雑賀第一尋常小学校、水軒尋常小学校、第二尋常小学校、第三尋常小学校と改称、明治35年にはすべて統合され雑賀尋常高等小学校になった。昭和3年、高松小学校の創立にともない、宇須、その後塩屋地区もこれに属することになる。

 昭和21年4月より、和歌山師範学校代用附属校となり、ひきつづき和歌山大学教育学部協力学校として教育学部学生の教育実習指導を担当し現在にいたっている。

 なお、島根県松江市にも同名の雑賀小学校がある。昔、松江城主、堀尾吉晴公がこの地に封ぜられ城下町区画を定めるに際し、鉄砲組を住まわせ、この人たちを雑賀衆と呼ばせて、勇猛であった紀州雑賀衆の名前にあやかった名残りが校名に継承されたものという。

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