三田地区には、和歌山平野南部にあり、和田川下流の低湿地から、名草山塊の尾根の伸びる丘陵地に位置している。
旧三田村は、和田、田尻、坂田の3つの村が合併して、明治22年成立した。「三田」の村名は、3つの村名を合併して名付けられたものである。明治24年には、戸数336・男898人・女884人・学校3・小舟22という記録が残っている。
和田地区には竜山神社があり、『日本書紀』神武天皇即位前期に戦死した彦五瀬命を葬ったと記されている竜山古墳が円墳として残っている。また、これ以外にも和田古墳群5基も確認されている。
和太(和田)と坂田は、両方ともに鎌倉期から見える地名で、中世には日前・国懸宮領和太郷に属していた。坂田の地名は、当地にあった坂田寺から来ていると考えられている。
田尻も、鎌倉期から見える地名で、中世には日前・国懸宮領神宮郷に属していた。
近世に入り紀州で初めて行われた検知である『慶長検知高目録』には、田尻(雑賀組に属していた)が563石、坂田(宮組に属していた)が528石、和太(和田・宮組に属していた)が1174石と記録されている。これらのことから、和歌山平野南部に広がる農業地帯であったことがうかがわれる。
江戸時代には、和歌山藩の蔵入れ地(直轄知行地)となり、一部は岡ノ宮(現在の刺田比古神社)領ともなっていた。また、この頃の熊野街道は、田尻村から三葛の峰を越えるルートであった。その登り口は着島と呼ばれ、船着き場もあったという記録が残っている。
近代に入り、明治9年には田尻村に宝恵小学が、坂田村に丈山小学が、和田村に桜泉小学が創設された。昭和15年に和歌山市と合併し、現在の三田地区となった。大正5年には山東軽便鉄道(現在のわかやま電鐵貴志川線)が通り、徐々に沿線の民家や工場も増加した。昭和50年には、世帯数961・人口4018人となっている。さらに令和2年8月1日現在には、世帯数2949・人口7356人に増加している。
現在も和田地区や田尻地区で宅地造成がおこなわれ、新しい住宅が建築されている。