和歌山市立 河北中学校

校区の状況

河北中学校区

湊小学校区

  • 和歌山市立湊小学校
    • 校区は、紀ノ川河口右岸に位置している。校歌に「浜の真砂の千鳥のあと…。緑こき松原かげの・・・。」と歌われているように、かつての白砂青松の海岸をもち、美しい自然に恵まれた静かな地域であった。
      この湊村にも、昭和15年、住友金属和歌山製鉄所の前身工場が建てられ大きく変貌した。先祖伝来の農地、美しいい松林、海水浴場や磯遊びと憩いの場であった外浜海岸は、湊村から消えていった。その結果、農業を離れ住友金属や他の会社で働く人々、農業を離れられず他の地域で農業を営む人等、湊の人々にそれぞれの新しい生き方が見られ始めた時期であった。
      住友金属和歌山製鉄所は、昭和36年(1961)に第1高炉の火入れが行われ、その後も工場拡張により昭和44年(1969)には、第5高炉が完成し、鉄鋼の1年間の生産量は922万トンという世界的な工場に発展した。
      湊では住友金属に勤める人や関連・協力会社も増え、また、他府県から湊へ転居してきた人も多くなり、昭和41(1966)年頃、湊の人口はピーク時に8774人に達した。こうして、御前松には、住宅、アパート、寮、マーケットなどが建ち並び、昔の面影がほとんど見られないほどの住宅街に変貌していった。
      その後、大気汚染などの公害が多くなってきた。そして、生産部門を鹿島に移したり、鉄の売れ行きも悪くなったため、生産は大きく減ってきたが、現在、新高炉建設に向けて、活気を取り戻している。また、26号線沿いには、大型の商業施設、娯楽施設が建ち並び、国道の交通量も増大する中、地域の状況は大きく変化してきている。しかし、旧来の湊地区は住宅と生姜のビニールハウスが建つ閑静で落ち着いた趣を残している。
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野崎小学校区

野崎西小学校区

  • 和歌山市立野崎西小学校
    • 本校は、和歌山市の北西部にあり、北部は打手川をへだてて貴志地区、東部は楠見地区、南部は野崎、北島、福島、西部は土入川をへだてて松江、湊地区に接している。梶取、狐島、島橋と野崎、延時の一部が校区にあたる。校区のほぼ中央を東西に県道粉河・加太線・東よりには県道梅原・和歌山市停車場線(旧国道)が、また、西よりには、大阪への主幹線国道26号が南北に通っており、年々交通量が増えてきている。南海加太線が学校の北西を走っている。
      和泉山脈は約7000万年前に起源をもつ和泉層群からなり、その南辺には大断層の中央構造線が東西に走り、紀の川は和泉山脈の南岸の山地との間にできた地溝を流れて沖積平野をつくりあげた。野崎の地はその平野の一部といわれ、紀の川の流れの移り変わりに深いかかわりをもっており、山地の名称にも昔の地形に由来するものが残っている。(狐島、北島、福島など)歴史においても戦国時代の雑賀一揆に参加した土地の土豪の名前も記録にあり、文政6年(1823)の北島一揆にも関係のある山地である。また、紀州徳川家と縁も深い総持寺が梶取にあり、人や物質の往来は盛んであった。(のざき郷土誌)明治22年(1889)市町村制の施行により5か村(梶取、福島、北島、狐島、野崎)が合併して野崎村となり、昭和15年(1910)和歌山市と合併する。
      地域は、農村地帯で米、野菜づくりが営まれ、静かなたたずまいであったが経済成長にともない昭和46年(1971)国道バイパス(国道26号)が開通し、農地が宅地となり、住宅建築もすすみ、野崎小学校の児童数が年々増加してきたため昭和17年(1972)に野崎小学校から分離し、「野崎西小学校」として開校する。平成19年4月現在、児童数452人。
      学校周辺では、宅地造成が進み、活気のある新しい動きをもっているが、まだ、農村的な閑静な感じを残している。
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 福島小学校区

津波避難計画

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