和歌山市立 西脇小学校

校区の状況

学校区について 

水軒浜から二里ヶ浜にかけての海岸は、紀ノ川の作用による三日月浜であり、浦曲であった。西脇小学校区はこの三日月浜の北西部を占め、地形的には砂州部・後背低地部・岩石海岸・山麓部・人工改変地に分けることができる。磯ノ浦から本脇・西庄にかけての地域は、北西から南東に連なる海岸砂丘で、その標高は4.0m~10.4mで、砂丘頂部は古くから人家・街道として利用されてきた。西脇小学校校舎も砂丘頂部に位置し、昭和33年頃までは十数本のクロマツ大樹やダンチクが校地周辺を取り囲んでいた。これらは防砂林・防風林として植栽されたものであった。本脇から西庄北部の後背低地部は標高0.7m~2mで、明治初期以前には低湿地であったが、その後水田、畑地へと移行し、近年は盛土により急速に宅地化が進んできた。日野・坂田は和泉山脈南麓の谷底低地であり、加太へ流れる堤川には湿地性植物が多く自生する。また、近年南麓斜面を開発して、ネオポリス・つつじが丘として次第に宅地化が進みつつある。つつじが丘は平成10年4月から分譲が始まっている。山地が海に迫る磯ノ浦の海岸は、海食崖から波食台となり、岩石や動植物の観察に適する。人工改変地は昭和40年以降による工業用埋立地である。この埋立によって二里ヶ浜の砂州地形は一変し、人工海岸となり、二里ヶ浜は約1㎞に縮小された。狭まったとはいえ二里ヶ浜には、近府県から海を求める人々が四季を通じて訪ねてくる。

「紀伊名所図絵」には、「本脇村の八幡宮、往来の過客殊に賞習せり名物糸切餅、詩歌の場となった磯ノ浦」等と記され、かつて加太街道・南海道の街村として栄えたことが推測できる。現在、これらの街道に南海加太線・県道粉河加太線が並行し、交通の便がよく、就労者の大半が和歌山市内や大阪方面に通うサラリーマン世帯である。
かつての主産業であった農漁業など第一次産業に従事する世帯は、工業用埋立が始まるとともに急減し、現在はシラス漁、野菜栽培などに専業・兼業の形で従事している。

地区の人々は、教育に対する関心が高く、学校教育にも協力的である。また、社会 教育活動も活発で、子どもたちの少年野球、サッカー、剣道、少林寺拳法、保護者の バレーボールなどスポーツ活動が盛んである。

 

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