和歌山市立 紀之川中学校

地域の紹介

紀ノ川
日本有数の多雨地帯・大台ケ原を水源とし延長135㎞の一級河川。奈良県内では吉野川と呼ばれる。
人ならば母が最愛子そあさもよし紀の川の辺の妹と背の山 (万葉集 巻七)


紀ノ川大堰から上流(方位:東)を写す。
手前は六十谷(むそた)橋、奥にJR阪和線鉄橋が見える。

 

せせらぎ公園

和歌山市管理の公園。紀ノ川河口方向に沈む夕日が美しい。本校のマラソン大会は寒風の中でここが会場となる。

 

若宮八幡宮

永亨11年(1439)鎌倉鶴岡八幡宮が焼失した時に、神体をもって紀州に逃れ、宇治の里前島に社を建てて祀ったことが始まりと言われる。その後紀州藩祖頼宣によって社殿が造営され和歌山城の艮方向の守護神となった。       享保6年(1721)に徳川吉宗から進納された太刀(国指定重要文化財)を所蔵する。境内には周囲が2.5mを超える菩提樹(県指定天然記念物)がある。  本校の写生会(1年生)は、この境内で行われる。

 

地蔵の辻

移転前の地蔵この地名は全国各地に見ることができる。       国道24号線(旧大和街道  上方街道・大坂街道とも言う)と県道有功天王線が交差する地蔵の辻。       以前は栗栖の八軒家にあったもので、地蔵の辻交差点付近に立てられたのは江戸時代享保年間の酉年と言われていることから、享保2年(1717)か享保14年(1729)と言うことになる。紀州藩頼宣の母により建立されたと伝えられている。尊像は台座を含めると約2m、2.5tもある大きさ。  文政6年(1823)に起こった紀ノ川筋百姓一揆が、ここで藩の役人と対決して年貢減免などの要求を認めさせた。       国道24号線拡幅工事に伴い、2003年、南約200mのJR紀勢本線沿いへ移転している。

左:現在の地蔵 上:写真は移転前の地蔵 

 

志摩神社

中之島の氏神として古い歴史を持つ。創立は約1800年前と伝えられ、所蔵の棟札には、明徳4年(1393)に将軍足利義満が再興したと記されている。また、天正13年(1585)豊臣秀吉の紀州攻めで焼かれたが、翌年早くも土地の人々によって復興したとも伝えられている。付近の人々の尊崇を集めていたからであろう。本殿は戦災を免れて、いまも夏祭りには、夜店がたくさん並ぶ。

 

JR紀伊中之島駅

1932年、現在の場所より約100m北の位置に阪和電気鉄道中ノ島駅として開業した。1935年の国鉄和歌山線紀伊中ノ島駅の開業と同時に阪和電気鉄道中ノ島駅が現在の場所に移転し国鉄と阪和電気鉄道の共用駅となった。       和歌山線が田井ノ瀬駅~紀伊中之島駅~和歌山駅(現 紀和駅)と通じていたころ、この駅が阪和線と和歌山線との乗り換え駅で、和歌山線ホームから階段を通って高架の阪和線ホームへ達する構造になっている。
阪和電気鉄道の東和歌山駅(現 JR和歌山駅)が栄えて、田井ノ瀬駅から東和歌山駅への線路ができ(1962年)、田井ノ瀬駅~紀和駅の利用も少なくなり、1974年にはこの間が廃止となった。紀伊中ノ島駅には国鉄和歌山線ホームが残っている。 2008年、駅屋根を支える鉄骨が八幡製鉄所の操業開始当初に製造したレールを転用したものであることがわかった。2009年、産業考古学会の「推薦産業遺産」に認定された。
昭和60年から無人駅。以前は本校3年生の修学旅行の出発点。
右写真は旧和歌山線線路跡から写す。 地蔵の辻から東へ少し行くと「阪和駅前」というバス停がある。この周辺に阪和電気鉄道中ノ島駅があったのだろうか。

 

JR紀和駅

明治31年5月4日に開業し、和歌山市内では最古の歴史を持つ駅で「和歌山駅」と称した。 1968年に東和歌山駅のターミナルビル竣工を機に駅名の改称が行われることになり、従来の和歌山駅が2月1日に「紀和駅」と改称、3月1日から、東和歌山駅が「和歌山駅」となった。 さらに和歌山市駅が南海電鉄線で難波とつながり、東和歌山駅(現 JR和歌山駅)が阪和線で天王寺とつながり、あわせて田井ノ瀬駅~紀伊中之島駅からの和歌山線が廃線(1974)になるなどにより、和歌山市の玄関駅になることはなかった。
駅「紀和」は開業させた紀和鉄道の社名が由来という説が有力。
現在は和歌山市駅と和歌山駅間に2両編成ワンマン列車が走り、その間の唯一の無人駅となっている。 右写真は旧駅舎。
和歌山市民は、和歌山市駅を「しえき」 和歌山駅を「わえき」と言う。ただし「わえき」と言うのは、若者たちに多いようだ。
 現在の駅舎

 

 

 

旧駅舎

 

 紀ノ川大堰  水ときらめき紀の川館

紀の川大堰横のある紀の川について学ぶことのできる施設。本校生徒たちも総合的な学習の時間に訪問した。

 

四箇郷一里塚

和歌山城京橋を起点として,一里の距離に設けられた道標。
元和5年(1619)城主として徳川頼宣が入国すると,城廓の規模を拡張し,城下町の整備にとりかかったが,その時、大和街道(上方街道・大坂街道)であったこの道路も整備し,嘉家作丁から八軒家にいたる道の両側に松並木をつくり,一里塚を築いた。
藩主が参勤交代で江戸に赴く時,藩士たちはここまで来て一行を見送り,帰国の時もここで出迎えた。

四箇郷
昭和8年(1933)に和歌山市に編入されるまでは四箇郷村。紀ノ川分流の「四箇井」という用水路を共同で管理していた有本、新在家、加納、松島という4つの村で、用水路の名と4つの村が一つになったことから「四箇郷村」となった(角川日本地名大辞典)。
和歌山の人は「しかごう」ではなく、「しかご」と呼ぶ。

 

地蔵の辻から西側、国道24号沿いの桜

国道24号(写真左側)より一段下がった道路。本校の写生会(3年生)は、この界隈で行われていた。

 

 

 

 

県立体育館

和歌山市中之島2238 JR和歌山駅前交差点を北へ向かうと次の大きな交差点は吉田交差点。
吉田交差点からはすぐ。JR和歌山駅より徒歩約8分。
以前、ここには向ノ芝球場があった。その跡地に建設された体育館で1964年4月開場。 なお、球場は紀三井寺公園に移転し、紀三井寺球場となっている

 

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