和歌山市立 紀伊中学校

紀伊中学校の歴史

紀伊中学校の歴史

 紀伊中学校は、葛城(和泉)山脈の裾野である紀ノ川の川岸が隆起した高台に建っている。

 校区の住居の多くはその高台部と、紀ノ川の沖積によってできた平野部にある。平野部は今でも広々とした田畑が広がり穀倉地でもある。

 この地は奈良時代から官道が東西に走り、役人や使役にあたる人々、税や塩袋などが通る重要な地であった。道中の府中(地名)には、大和朝廷の頃、紀伊国府がおかれていた。紀伊の地区には大字名が多く、田屋、西田井、小豆島など農業に起因した名や、府中、北、弘西、北野、上野など地理的なことに起因した名がある。

 明治21年(1888年)市町村制が交付され、これらの村をまとめ、かつての紀伊国府から紀伊をとって紀伊村とした。その地にある中学校であることから紀伊中学校となって近隣4箇村を併せ5箇村立として、昭和22年(1947年)4月に開校した。校歌にも「・・五村の子らは集いたり・・」とある。

 昭和34年(1959年)紀伊村は和歌山市に合併され、紀伊という行政区の地区名となった。

 有功地区、川永地区に大きな団地ができ、それぞれの地区に住宅が増え、生徒数も増え続け、昭和58年(1983年)度には生徒数が2,242名、教職員数96名となり、翌、昭和59年(1984年)4月に有功地区に有功中学校として新設校を設置し分離することになった。分離する際に、在校生ならびに教職員により当時の思い出の品等をタイムカプセルとして、30年後の3月1日まで保管することになった。

現在の紀伊中学校

 学校は、自然や環境に恵まれ、四季折々の変化が目の当たりに実感できる高台にある。校区は、田畑が広く残る田園地域であるが、保護者の多くは会社等への勤務で、純粋の専業農家は少数になっている。校門を入った庭に、長い間学校医を勤めてくださった、森 喜兵氏の寄贈による校歌の歌碑が建ち、創立以来、五村の子らの伝統と校風を受け継ぐ、と刻まれている。

 平成26年3月1日には、紀伊中学校の分離30周年記念として、タイムカプセルオープンセレモニーを開催した。

 生徒は純朴な性格であり、向学心に燃えている生徒も多い。平成31年度の生徒数は450名、学級数は16学級、 教職員数は39名である。部活動は、生徒の8割程度が入部して活動している。

 校区は広く、西部で有功中学校、南部は紀ノ川を挟んで高積中学校と、東部は岩出市、北部は大阪府と接している。生徒の9割以上は自転車通学、若干名は電車通学、残りの生徒は徒歩通学である。近年、校区内では新道もでき、宅地化が進んでいることもあり、校区内の児童生徒数は緩やかではあるが増加傾向となっている。また、校区内には和歌山県立和歌山盲学校、和歌山県立紀伊コスモス支援学校があり、定期的に交流活動を行っている。

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