■岡崎の地誌
明治22年、もとの岡崎の荘に、神宮郷の神前・井辺を加えて編成した地区である。旧岡崎荘は区内に山が多く「大日山」「福飯ヶ峯」など海に面した丘(岡)があり、その前(崎)の地ということで岡崎の名がついたという説があり、昔は「崗前」ともかいた(雄略記による)。岡崎荘の名は貞和年間の文書にある。
区内「寺内」に古刹「満願寺」があり、その盛んであったころ、熊野参詣の人々はこの寺に詣で、大いに栄えたとある。
元亀・天正のころ「満願寺」は子院36坊、おのおの兵力をたくわえ、織田・豊臣の二氏に反抗したため、豊公南征のときことごとく焼かれ、寺領没収せられ公領となった。
◎森小手穂(もりおてぼ)
もとは「森村」と「小手穂」の二村であった。森は地区内に森林が多かったので、森村となり、また、「小手穂」は地区内に弘法大師「お手堀りの井泉」があったことより「おてぼ」と呼ばれた。この泉は干ばつのときにもかれず、雨降るともにごらず、こんこんと湧き出た。
◎西(にし)
もと岡崎の荘の西にあったのでこの称がある。「小谷大谷」に「熊野神社」があり、もと岡崎の荘の氏神で神領1町5反あったが、天正の兵乱において没収せられた。
◎寺内(てらうち)
「満願寺」の堂塔はもと山の下にあったが、天正の兵火に消失した後、現在の山上に移し、その跡地を村人の住まいの地として「寺内」といった。昔から「山東」に行く道すじにあたっており人家が軒をならべて栄えた。
◎井辺(いんべ)
もと神社上郷のうちで、以前は「忌部」とかいている。広長(1596年)地検帳には「井辺」とかいている。続風土記「忌部山」は古山檜山で両宮造営の材木を出したとある。ここに、採材斎部氏が住まいして、その地名を「御木」といい、斎部に対して「御木の忌部」といったのを、御木の名を略し「忌部」をもって郷名とした。
◎神前(こうざき)
もと神宮下郷の地で、日前宮の宮山の崎であるので、この地名がある。また、「神前」ともかいた。天歴8年(954年)神前梅千代景吉が、村上天皇より神前郷を賜わり河内よりこの紀州に移り住んだ。足利義満が和歌浦遊覧のとき、この家に立ち寄られたとある。
◎岡崎団地(おかざきだんち)
井辺、神前両地区の間を流れる川をはさんで、昭和38年度に氏の団地造成計画による造成が始められた。それに伴い分譲住宅190戸、高層アパート(10棟)220戸、平屋2階建住宅340戸、計750戸が建設され団地が形成された。その後、近接地域に民間業者による宅地造成があり、住宅数の増加が続いた。公共施設として、保育所、郵便局、公園等も設置された。現在では、初期入居者の高齢化、世代交代により本校児童は減少した。
■地域の実態
当地は和歌山市街の南東部に位置し、地形的にも自然に恵まれた、農村的雰囲気が残る静かな地域である、旧村は稲作農業を主とし、丘陵地や畑地ではみかん栽培も行われてきた。またメリヤス、鉄工所を営むところもある。