和歌山市立 小倉小学校

校区の状況

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1.校区の様子

小倉の校区は、和歌山市最東部にあって、北は和歌山の母なる紀ノ川をのぞみ、南と東は紀の川市、川を隔てた向かいは岩出市となっている。山あり川あり、さらに、田園が広がる自然豊かな地域である。

校区の面積は約11平方キロメートル、東端から西端までの距離は4キロメートル以上あり、南北に短く東西に長い楕円形の地形となっている。その中心を東西にJR和歌山線が走っている。

近年、工業技術センター、木工団地、食品工場などが、JR線と北端の県道14号線(旧国道24号線)の間に建ち、都市化も徐々に進んではいるが、校区のほとんどは田畑の広がる田園地帯となっている。

和歌山市の中心部からは離れており、どちらかといえば隣接する岩出市の経済圏に属している。

2.小倉地区の歴史

本校校区内には歴史的遺跡が多くある。

校区南部の県立和歌山高校東の丘陵地帯には、奥山田遺跡があり、縄文時代から鎌倉・室町時代に至る各時代の石器や土器が出土している。縄文式土器、弥生式土器・環濠や住居跡が発見され、古代より開けていた土地であることが分かっている。

校区南の山すそや山中には奥山田古墳群、寺山古墳群、宮山古墳群、東国山古墳群、七ツ塚古墳群、明楽古墳群、小倉古墳群、モント古墳群があり、横穴式石室や竪穴式石室、須恵器・鉄器・玉類・馬具などが発見されている。

校区の西端には熊野九十九王子の一つの吐前王子社跡がある。平安時代から中世にかけて、人々が小倉地区を通って、熊野参詣をしていたことがうかがわれる。また、JR和歌山線と並行して旧大和街道が東西に校区を横切っている。現小倉郵便局付近には、和歌山の城下町から数えて三里目の一里塚がある。この小倉地区は、古くより多くの人々の行きかう交通の要衝であったと推測できる。

また、小倉地区は中世までは、延暦寺領の荘園(三毛荘)、吉野金峯山領の荘園(小倉荘)として栄えた。

戦国期には、小倉荘の土豪で根来寺頭目として活躍した津田監物が、種子島から鉄砲を持ち帰り、それをもとに国産第一号の鉄砲が根来で作られ、根来僧兵の鉄砲衆が生まれることになった。さらに、監物は鉄砲を当時の将軍足利義晴に献上した記録が残っている。監物の墓所は、大垣内地区の光恩寺内にある。この光恩寺には、和歌山城の本丸台所を移築した庫裡があり、和歌山市の指定文化財となっている。

豊臣秀吉の紀州攻めの際には、当地の宮井川より取水して、有名な太田城の水攻めが行われたという記録もある。

小倉地区は、このように、歴史について思いをはせることのできる史跡が数多く残っている地域である。

 

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