和歌山市立 名草小学校

校区の状況

名草地区は、旧熊野街道に沿った三葛・紀三井寺・内原と、海岸に沿った布引・毛見の旧五箇村からなっている。
静かな田園地帯で、長い間大きな変動がなく、名刹紀三井寺を始め多くの名所旧跡の残る歴史の古い地区であった。
昭和38年、毛見地区に県営の運動公園建設が始まった。それに隣接して、大規模な住宅団地が造成され、続いて、事業団住宅の建設、私営旭橋団地の開発が進み、住宅と人口が急増してきた。
昭和46年、運動公園を中心に国民体育大会が開催された。それに伴う、周辺地域の整備により、交通の便がよくなって、交通量も増加した。県道・国道沿いに、住宅や商店、飲食店、遊技場などができ、次第に都市的な様相を呈してきている。
昭和50年頃から、児童数が急増する中で、学校分離の気運が高まってきた。地域の住民の強い要望が遂に実現し、昭和56年、内原地区にあった県有地に「名草小学校浜宮分校」が開校し、翌57年4月には、浜宮小学校として独立、名草地区を南北に二分する2つ校区に分けることになった。
本校地区は、その北部にあたる地域である。都市化しつつあるとは言え、各地区にはそれぞれの特色や伝統などが残されていて、住民どうしの連帯感は強い。地区における保護者のPTA活動も活発に行われている。
校区、各地区の様子は大要以下の通りである。

【紀三井寺地区】
多くの参詣客を迎える紀三井寺の門前町として古くから栄え、今も年間を通じて観光客が訪れる。土産物店や商店も並んでいる。

【三葛地区】
かつては、各種の行商で栄えたと言う。メリヤス工場も多く、近年、住宅が増えている。

【布引地区】
近郊農業として、蔬菜類の栽培が盛んな古くからの畑作農業地帯である。とくに、大根(布引大根)や生姜はブランド品で京阪神にも多く出荷されている。

【内原地区】
歴史の跡を多く留める地区である。米作中心の農業地帯であったが、近年、住宅地造成などで水田が減り、専業農家は少なくなり、職業は多様である。

【旭橋地区】
住宅団地が大部分であり、他地域からの転居者が多い。平成11年、競馬場跡地に県立医大附属病院が建設された。

校区の様子

   
布引の畑広いです 明和中学校前の陸橋から国道の様子です
   
紀三井寺です 布引の畑です
 
遊歩道 紀三井寺前のお土産やさんです

 

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