和歌山市立 貴志南小学校

学校概要

学校紹介(「教育計画」より抜粋) 縄文時代の初めごろ(今から約8千年前)には、この地域の海面は現在より2~3メ-トル高かったと考えられている。そのため、海水が和泉山脈のふもとまでおしよせ、学校のある場所は海の底であった。その後、海水面の低下と紀ノ川の堆積作用がすすみ、弥生時代(今から約2000年前)には陸地がこの地域に現れてきた。

古墳時代には、梅原地区に隣接した木ノ本地区に釜山(カネヤマ)古墳群が造られている。この古墳群中の車駕之古址(シャカノコシ)古墳は全長130mの大型前方後円墳で、紀ノ川の下流を支配していた大首長の墳基であるといえる。この古墳を造営した人々が、この地域にも居住していたのであろう。

奈良時代の条理地割が、梅原地区の南の水田に遺存しており、この時代には水田開発がさらに進んだと考えられる。これらの水田は、和泉山脈から硫化する大年川によって形成された扇状地上にある。上池・下池・三笠池を水源とする大年川によって、現在もかんがい用水が行われている。この頃、紀ノ川の主な流路は、紀ノ川の右岸を通り、狐島付近で大きく弧を描いて南に流れて、和歌浦湾に注いでいた。今の土入(ドウニュウ)川は、その当時の紀ノ川の旧河道のなごりを止めている。また、この頃、南海道が整備され、都(奈良)との交流が盛んであったと推測される。

鎌倉時代になると、土入地区などで新田開発が進められ、大年川の水利開発が土入地区まで伸びていったと考えられる。

戦国時代の中野城の遺構が、学校の東南部に残存している。この城は、天正5年の織田信長の雑賀攻めをむかえうった雑賀党の出城と言われ、今でも石垣や堀跡が見られる。本校の建設に伴った発掘調査(1980~1981年)では、人為的に掘削された大溝が検出され、その中から多量の瓦・朝鮮王朝の白磁・刀の切っ先と見られる鉄器片が土出し、周辺には城館があったと考えられている。

江戸時代には、和歌山藩領として、海士代官の支配下のもと、貴志組に所属し、農村として水田や畑利用が盛んに行われていた。大阪方面との交通は、孝子峠越えが昔から淡島街道とよばれ、盛んに利用されていたが、この頃には和歌山藩の見張り所もあったようである。この峠越えの交通機関として、南海鉄道が明治31年(1898年)に、阪和国道(国道26号)が昭和8年(1933年)に、それぞれ開通している。

明治22年には、栄谷・中・次郎丸・向・延時・梅原・中野・土入の8ヶ村が合併して貴志村となり、昭和17年には和歌山市域に編入された。昭和42年に紀ノ川大橋が完成し、国道26号線が4車線化等により、和歌山市中心部との交通の便が大変良くなった。それまで、純農村地域としてのたたずまいを保ってきたこの地に、公営住宅をはじめ、住宅の建設、各種企業の進出が行われ、急速に都市化してきた。

本校は児童数が急増し、過大規模校となった貴志小学校より、昭和58年(1983年)に1~3年生児童による貴志南分校となり、翌年より「貴志南小学校」として開校した。開校当時、児童数は617名を数えたが、近年の少子化の影響もあり、児童数の減少が続いている。

この地域は、住宅地帯であり、保護者の大半は給料生活者で、共働きも少なくない。また、新興住宅の増加に伴い、人間関係の希薄さが見られ、地域の教育力が低くなってきている。

育友会(PTA)では、「貴志南祭り」など学校・地域・保護者が連帯して取り組める行事を催し、地域の教育力の向上に努めている。

児童は、全体的に素直でおとなしく、親切でやさしい子が多い。反面、計画性・行動力・粘り強さに欠ける傾向が見られる。また、基本的な生活習慣やきまりを守るといった生活の指導については、さらに充実させていく必要がある。

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