和歌山市立 芦原小学校

校区の状況

校区の歴史

本校は和歌山城の南東1.5㎞に位置し、西に吹上の砂丘を望み、東を和歌川が南流している。
芦原と言う地名は昭和8年の市町村合併の折り、明治時代より呼称されていた岡町村を廃してこの名称となった。
芦原地区は古代や中世においては岡ノ里ないし片岡の里に含まれていた。この岡の地が初めて文献に登場するのは、奈良時代の聖武天皇が和歌浦に行幸した記述に見られる(造離宮於岡東『続日本紀』)。片岡の里については『続日本紀』に「大伴部押人言、伝聞、押人等、本是紀伊国名草郡片岡里人也」という記述が見られる。

この岡の地名については、『紀伊続風土記』は「古今地形変遷あれども此岡山は古のままにて今に替わざれば岡を以て此辺の地の総名とせり。岡山の東を岡の谷といひ其東南を岡島といひ其辺に村落をなすものを岡村といひしに今は其地尽く城下の域に入り内郭并に広瀬新町吹上となり唯小名塩道といふ地今一村落をなして岡町の東南端にあり。」と記述している。
元亀元年(1570年)から始まる織田信長と本願寺の戦いには、雑賀衆や根来衆は総力を上げ本願寺を支援をする。
天正5年(1577年)信長は本願寺を支援する雑賀衆を討伐するために15万の兵を動員して雑賀に攻め入り、小雑賀川を挟んで激しい鉄砲戦が行われた。世にいう小雑賀川の戦いである。この両軍が激しくわたりあった古戦場もこの辺りから南の方面で行われたのであろう。天正13年(1585年)、豊臣秀吉の紀州雑賀攻めにより、天下に名をとどろかせた雑賀衆鉄砲軍団は壊滅する。その後、秀吉の弟である秀長が岡山に築城し、彼の代官桑山重晴が城代として治世を始める。
1600年、関が原の戦いの後、浅野幸長が桑山氏に替わって和歌山に入城し、本格的な城下町の町割りを実施する。
現在の4ヶ寺(西教寺・善行寺・西慶寺・円光寺)のある付近は土地も高く、早くから人が住みついたようである。
また、岡の東南に塩道と呼ばれる地があり、古くは塩道と岡島の2村が校区に存在したものと思われる。江戸時代になり、徳川頼宣が駿河の国より和歌山城に入封した折り、釘貫又五郎が堅城見回り役としてこの地に移り住んだと言われる。
本校に隣接して『紀伊国名所図絵』に登場する「四方嵐の松」が存在していた。現在は松の木稲荷がおまつりされている。当時は、名草山が一望できる風光明媚な所であったのであろう。このような歴史をもつ芦原の地に学校が創立されたのは、明治政府が学制を公布した翌年の明治6年である。地元の森伝兵衛氏の熱意により私学が創立されたが、翌年に閉校している。この森氏の意志を受け継いだ地元の人達は学校建設に向け計画を進め、建設資金を集め、明治8年に西洋風の校舎を建築し、藻川小学校として開校した。これにより約半年前の同年3月10日に塩道村本久寺の庫裏を仮用して塩道小学校がすでに開校されていた。

 

校区の概況

芦原地区の世帯数は昭和22年に1430世帯であり、現在(H20.4.1)も1401世帯と、世帯数はあまり変動していない。しかし、人口は5524人(S22)をピークにして2741人と約2783人減少している。人口が減少しているにもかかわらず世帯数が減少していないのは、住宅建設にともなう家族の世帯分離が進んだ結果である。
地域改善対策特別措置法及び財特法により対象地区として残事業が進められたことにより、住環境が著しく整備され改善されてきた。地区民の切実なる願いのなかで、1506戸(H16.4)の住宅が建設され、また、東西と南北に貫通する三幹線道路拡幅にともない道路沿いの住環境整備、緑地帯の整備も大きく進んだ。
しかし、地域住民の就労状況は不安定である。よって、本校保護者の要保護(生活保護)及び準要保護児童の割合が高い。
近年、保護者の学校教育に対する関心は高まり、学習参観・懇談会・学習発表会・諸行事への参加協力が積極的になってきた。また、家庭においても幼児期から情操豊かな子どもの育成に努め、学習面においても、習い事や塾に通わせることも多くなってきている。今後は、学校・保護者・地域が協力していくなかで、確かな基礎学力を身につけ、且つ心情豊かで生きる力に充ちあふれた芦原の子の育成に努めていく必要がある。

 

校区の教育環境

○芦原保育所と芦原幼稚園
芦原保育所は、0才児から3才児までの幼児を保育している。芦原幼稚園は4才児と5才児の幼児を保育している。芦原の子どもたちの学力は、高校進学や就職時に、毎年大きな問題となってきた。幼児教育の大切さに着眼した地域の指導者の提言と、市当局の行政により、平成8年度より保幼完全一元化が実施されている。
保育所で3才まで保育された幼児のすべては、4才で幼稚園へ入園し、幼児教育を受けるとともに、保育時間は保育所に準じて午後5時まで保育することにしている。幼稚園では、保育時間を延長し、且つ幼児教育をすべての幼児に保障する狙いを担う。延長した保育時間を漫然と保育するのではなく、幼児教育にふさわしい内容の保育をめざしている。幼小の移行が円滑に行われ、成果があらわれている。また、夏休み中、冬休み中、春休み中も保育を実施している。それだけ家庭における幼児の保育時間が少ないので、家庭での家族や親子の過ごし方が極めて大切である。

○教育文化的な施設とその活動
芦原地区における教育文化的な施設としては、芦原保育所、芦原幼稚園、芦原小学校、芦原文化会館、児童館、芦原児童遊園がある。医療機関として、芦原診療所がある。

・芦原文化会館
昭和47年に現在地に新しく建設されたもので、地域社会教育センターとしての役割を果たしている。生花、料理、民謡等の教室、講演会や学習会、また、生活、健康等の相談などの多くの活動がなされている。子ども太鼓も週に一度、ここで練習している。

・児童館
昭和58年5月に完成し、充実した活用がなされている。あしのは学級、子ども会の例会活動も行われる。
(あしのは学級)
昭和40年に発足したもので、留守家庭の児童を対象に、放課後より午後5時まで、生活指導を中心にした指導がなされている。現在は1年生から4年生までの希望者の45人が入級し、市教育委員会より委嘱を受けた指導員3人が指導にあたっている。
(子ども会)
昭和27年に発足し、現在5地区に分かれて子ども会を組織し、保護者の中より地区指導員(市委嘱)が指導運営にあたり、また、市社会教育課指導員2人が、児童館に常駐し、指導にたずさわっている。小学校も学推教員を中心に全教員が指導に参加している。活動の内容は、週2回の例会活動(読書・工作・ゲーム等)のほか、週1回の子ども太鼓、また、文化祭、野外活動等の行事も行っている。

・芦原児童遊園(スポーツ広場)
昭和57年完成し、東西55m南北70mの広さで、サッカー、キックベースボール等子どものスポーツを中心に使用されている。また、地域の行事(盆踊り、七夕祭り、地区運動会等)にも利用されている。

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